春の集合墓地

2020/04/22

桜です。

外出自粛で引きこもり生活が続いていますが、容赦無く季節は回っており、たまに外に出るとやはり地球は変わらず動いているというか…。大げさに聞こえるかもしれませんが、別に人間が何も始めなくても、この宇宙では絶えず何かが始まっては終わっているのだなと思わされます。

中でも桜という生き物は本当に変動するのが早いですね。外に出ることがあるたびに咲いては散っているし。

それはさておき、私の観察癖なのか、私はなんだか桜を見るとき散り落ちているものの方に目がいってしまいます。

もちろん満開に咲いて枝々を賑わせている桜の様子にも心踊らされるのですが、散って地面にへばりついている桜にはなんだか自我というか、落ちた花それぞれの個別の振る舞いがあるような気がします。

何故なのか考えてみたときに思うのは、「枝についている花は一本の木の一部として機能するのに対し、散った花は地面に落ちた瞬間からそれぞれ全く別の境遇を味わうことになる」からなのかなということ。

枝の先で生きているうちは花たちは細かな違いはあれ「桜の花」として同じように働き、土へ落ちると、ばらばらになったそれらは雨に濡れたり、風に飛ばされて川へ落ちたり、人間に踏まれて靴跡の形に変形したり、それぞれ全く別の末路をたどるわけです。

だからこそ散った花には何か自我というか意思めいたものを読み取ってしまうのかもしれません。(あくまで私がそう読み取っているだけですが)

「集合墓地」なんて陰気なタイトルをつけましたが、桜の場合は落ちてからこそ個性が出るなんてこともあるのでしょうか。

あれほど華やかに咲いて、落ちてからなお声をもつと思うと、桜は本当に強い存在であるなと思います。

万物の暫定霊長たる我々も、できるだけ落ちてなお声をもつよう心がけるべきでしょうか。「死人に口なし」とかいってる場合じゃないですね。

(2020/04/23 念のためちょっと追記:写真は買い出しへ行く際に撮ったもので、まだまだ私も自粛中です💦そこまで書かなくてもいいかとも思いましたが、状況が状況なので一応書いておきます。早く生きている花をいつでも撮りに行けるようになってほしいものですね。)

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